--------------------------------------------------------------------------
一月後、私は彼女と約束した海岸に立っていた。あれ以来、彼女とは一切連絡がつかない。代わりに隣には、染めた金髪にサングラスと、何ともガラの悪い青年が立っている。
「――で。おめーさんは彼女に小指を食い千切られて昏倒。一週間くらい寝てた、ってワケだ」
じゃらり、と派手に金環を鳴らす錫杖を担ぎ、自称「修験者」の青年が言った。
「しかしまあ、アンタの場合それで良かったんだろうよ。結局小指一本で済んだんだからな」
そうため息交じりに言って錫杖で肩を叩く青年によれば、私はあの日、約束を守っていたらこの世から消えていたらしい。
「その日はな。旧暦の七夕だったんだよ。海にアッチとコッチの通い路ができて、漕ぎ出せば天の川を渡れたわけだ。その女はおめーと一緒に、あっち側に行きたかったのさ」
『約束』の場所は、その度ごとに遠くになっていた。最寄り駅、二駅向こう、別の街、そして、別の世界(くに)。私は遠く水平線に視線を投げる。そこに彼女の姿を思い描く。
そう、『彼女』――その名前を、私は忘れていた。登録していたはずの携帯電話からは彼女の番号は消えていた。今となってはもう、一体自分が誰に電話をかけて、誰と食事を共にしていたのか分からない。
「彼女は……一体何者だったんだ」
ぼんやりと尋ねる私に、あぁー、と困惑した風情で青年が頭を掻き回す。
「まあ、言ってみりゃあ『天女』かねぇ……」
天女、とはまた。随分イメージと違う。妙な顔をしていたのだろう。そーな、と青年が首を傾けた。薄く色の入ったサングラスがずれて、異彩を放つ目が光る。彼の目の色は、銀とも緑ともつかない不思議なものだった。
「羽衣伝説ってあるだろう。綺麗な天女が舞い降りたのを見つけた野郎が、その女欲しさに羽衣隠しちまって……ってやつ。あの話は最終的に、羽衣見つけた天女が空に逃げ帰って終わりなんだがな。逃げた天女を追った男は、天に召し上げられて星になるって伝説があるわけよ。で、一年に一回、七夕の日に天の川を渡って逃げた嫁さんと逢える、と。どういう都合か知らねぇが、七夕の日に一緒に渡りゃあ天の川に隔てられず、一緒の岸で暮らせるんだろうよ。おめーさんは逆に、天女に惚れられて連れてかれかけたワケだ」
つまり羽衣伝説の天女と七夕伝説の織女は同じ「あちら側の女」であり、『彼女』もまた同じような存在だったということらしい。確かにその能力は、人智のものではなかった。しかし、目の覚めるような美女でもなければ、今隣にいる青年のように特異な容姿をしていたわけでもない。
「まあそりゃあ……俺らにとっちゃ『その力』は特別なもんだが、向こうの連中にとっちゃどうってことなかったりするだろうしな。その女は『向こうの普通の女』だったってことじゃね?」
呟くように疑問を口にした私に、肩を竦めるようにして青年は答えた。確かに、何の変哲もない女子大学生のような娘だった。決して美人でもなければ、好みの範疇だったとも思わない。
だが、酷くその顔が懐かしい。その名を忘れてしまったことが、こんなにも惜しい。水平線に彼女をのぞみ、溜息を吐く私に青年が釘を刺した。
「言っとくが。その女に見逃してもらえたからって、てめぇの罪が消えるワケじゃねーからな。てめぇがやったのは呪詛だ。天女の力を借りて何人も殺してやがるのはてめぇだ」
分かっている。つもりだ。この青年は、私の行った呪詛を始末するため、私の敵となる人物に雇われたらしい。成就してしまった呪詛を取り消すことも出来ず、元凶の天女は消えた後だったのですることが無いと嘆いていた。
私は結局、小指と共に全て失った。社会的な地位も、受け継ぐはずだった財産も全て、彼女と呪詛をすることで守ろうとしたもの、得ようとしたものは全て失われた。因果応報、人を呪わば穴二つ、結局この世はそういう風に出来ているのかもしれない。
「だから――償う生き方を考えろ。呪詛に手ぇ出しちまう強欲な人間らしい、悪い往生際を見せてみろ。てめぇは、星になるのなんざ許されねぇんだよ」
彼女を追って、天の川を渡れたら。あの日、約束を守れていたら。そう思っていた私の心を見透かし、青年が鼻を鳴らす。私が「向こう側」に引っ張られないよう、秋の彼岸が明けるまで私を見張るのが今の彼の仕事だった。
小指のない右手へ視線を落とす。せめても小指だけでも、彼女と共に行けた。そう喜ばしく思う私の心を、此の岸に縛り付けておくことこそが、私に課せられた罰だった。
---------------
はい、もう一個のウンチク仕掛けは旧暦七夕と天の川と天女伝説でした。
七夕はもう一回やってっから厳しかったっす…。
美郷なら絶対に呪詛は許しませんが、怜路君はどうなんだろう……と考えつつ、やっぱ多分こういう私利私欲の呪詛は許さないでしょうね。状況に陶酔して世を儚むのも許さないようです。
というわけで、夏らしく続いている怪奇系シリーズ。
あともう一回、巴市ネタでないのが残ってます。
PR